先生って呼ばれることがあんまり好きじゃない
僕はしばしばコーチングやメンタリングをしているのですが、たまに「先生」って呼ばれることがあります。
敢えて訂正するほどの不快はありませんが、何か居心地の悪さのようなものを感じたので、
これってどういう感情に基づくものだろうってことで深堀りしたくなりました。
あと個人的な思考の言語化の練習です。
「先生」とは
goo辞書によると「先生」の意味は以下のようになっています。
《4が原義》
1 学問や技術・芸能を教える人。特に、学校の教師。また、自分が教えを受けている人。師。師匠。「国語の先生」「ピアノの先生」
2 教師・師匠・医師・代議士など学識のある人や指導的立場にある人を敬っていう語。呼びかけるときなどに代名詞的に、また人名に付けて敬称としても用いる。「先生がたにお集まりいただく」「先生、お元気ですか」「鈴木先生」
3 親しみやからかいの意を含めて他人をよぶこと。
「ははあ―今日は宅 (うち) に居るな」〈漱石・彼岸過迄〉
4 自分より先に生まれた人。年長者。
「年の賀も祝はれず、―にはあるまじきことなり」〈鶉衣・戯八亀〉
今回のトピックは2の意味としての「先生」です。[1] 特に「指導的立場にある人」に対する敬称ですね。
「先生」という呼称は暗黙的に権威を付与する(ように感じる)
僕は、「先生」という呼称が権威を付与するようなニュアンスを感じます。
言葉から感じ取れるニュアンスのようなものあるいは言葉の定義は経験によって形作られます。 ことに幼少期の経験からの学習を払拭して再定義するというのは難しいことです。 最も最初に触れた「先生」は教師で、自発的に認めて従うべき存在であるとする教育の名残でしょうか。[2]
とにかく「先生」という呼称は、権威を持つ人に対するものだという認知が僕にはあるのです。 「先生」と呼称されることに居心地の悪さを感じるのは、この認知が影響しているんでしょう。
「先生」の責務が暗黙的に発生するのが嫌?
権威には責務が伴うものです。
僕のコーチングは指導的にならないことを意識しています。[3] そうは言っても実際のところは 専門的立場から関わる以上、相談者の意思決定を少なからず方向づけることになります。 そうした活動をする以上、常に言動には注意を払うのがコーチャーだったりカウンセラーだったりの責務だと思います。
責務を負うことは負荷がかかることですから、不必要に負いたくはありません。 しかし「先生」が暗黙的に権威を付与するならば責務をも同時に負わなければいけません。
暗黙的に責務を負わされると言うとちょっと大袈裟ですし、 相談者はそのようなつもりは毛頭無いとは思いますので、 「先生」という言葉に対する僕の認知の方向性がちょっと変なだけだとは思いますけどね。
いずれにしても、どんな呼称で呼ばれようと受容的でありたいものです。 どんな呼称であれそれに居心地の悪さを感じるならば、その裏にある思考には十分に注意したいですね。